6月から約2ヶ月間のあいだ、友人とシェアしている自宅「馬場下ハウス」にバックパッカー(ここでは、カウチサーファー)を招いた。友人とシェアしている自宅は木造2階建ての一軒家(4LDK)なのだが、一階をゲスト用に解放。
そして、カウチサーファーとして受け入れた人たちは、Couch Surfing(http://www.couchsurfing.org/)で世界を旅している人たち。僕もそこに仲間入りしたくて、そのサイトに登録したわけですが、登録した初日から10件近くのリクエストが来た。
おそらく、「東京都新宿区」という立地が良すぎるせいだと思う。結局、あっという間に6月のスケジュールが埋まり、ここ2ヶ月の間の「楽しくも教訓に満ちた生活」が始まっていた。
ここでは、この2ヶ月の間にどんな人と会い、どんなことがあったのかは記しません。その代わり、始める前と今とでは大きく変化した自分の価値観を書きたい。
”理由ばかり”の生活
彼らと出会う中で、はっきりと自覚したことがあった。それは、いままでの自分の生き方は、”理由ばかり”に囚われていたこと。大学進学も、バイトも、サークルも、ぜーんぶ理由を考えてから行動した結果だった。”明日の予定”という単純なことであっても、理由を考えてから過ごしてきた。
「なぜ」、「なぜ」、「なぜ」
こうした自分の生き方を自覚したのは、今回のカウチサーファーとの会話が起点であった。今回のゲストは、北欧と北米中心の来客。ぶっちゃけ僕からしてみれば、ヨーロッパのスロベニアやスウェーデンから日本に来る背景には、「すんごい理由があるからだろう!」と思ってた。でも、その思いは、現実とはぜんぜん違った。
カウチサーファーが来るたび、僕はこんな質問をした。
「なんで日本にきたの?」
「今日はなにするの?」
「明日の予定はあるの?」
日本人にこんな質問をしたら、みんな一生懸命説明すると思う。
「どうして日本を選んだのか、どういう覚悟で日本にきたのか、日本でなにをしたいのか。」ということを。そして、今日はどこへ行って、明日はなにがしたのかまで考える場合が多いと思う。
だから、僕が彼らに質問をしたとき、同じような答えが返ってくると思った。
でも、僕に帰って来た答えは、予想外のものだった。
「んー、わからない。おもしろいと思ったから日本にきた!」
「去年もきたけど、道に迷ってすぐ帰ったよ。」
「今日なにをするかは、わからない。外に出てから決めるよ!」
「明日のことは、明日決めよう。それがいい!」
誰も、日本に来た理由を真剣に考えている素振りを見せなかった。っていうか、今日のことでさえも、ちゃんと考えているのか危うかった。笑
僕と出会った人の多くは僕よりも3〜4歳年上であったが、誰一人として難しい理由を考えていない。
「〜という理由があって、それを〜したいから、日本にきた。」
こんな答え方をする人はいなかった。むしろ、質問をするたびに、彼らの”純粋なエネルギー”だけを感じることができた。
だから、こんな感じで彼らの話を聞いていくうちに、「なーんだ、生きていくのに、理由がなくたって幸せなやつは、いっぱいいるじゃん。俺は、複雑すぎる生き方をしていたんだな〜。そりゃ、大変だわ。」
そう思った。
ルールの多い生活
カウチサーファーのみんなと、歩きながらよく語り合った。日本語を使うことはほとんどなかったけど、自分なりの英語で必死にコミュニケーションした。そんなあるとき、あるカウチサーファーが、僕に言った。
「日本人は、大人も子どもも、学校の生徒みたいだね。」
彼女のその言葉を聞いたとき、頭をドカッと殴られたような思いをした。
「そっか。日本人は、外から見るとそうみえるのか。もちろん、子どもがそう見えるのはわかっている。でも、彼らからしたら、日本人の大人もまた、子どものように見えるのか。」
彼女の言葉には皮肉はなかったと思う。でも、彼女のその言葉は、端から見た日本人の特性をよく説明していると思った。なぜなら、電車・お店・家・デパート・会話のどれをとっても、「やってはいけない・やらないほうがいいこと」がたくさんあり、日本人の誰もがそれに従っている。しかも、黙々と。まるで、学校の先生に言われてやる生徒のように。
日本では、そういう姿を、「空気を読む」と言う。
黙ってやりなさい、言うことを聞きなさい、人が迷惑することはしなさんな。こういうことを自分たちにいい聞かせながら、日本の教育が行われていることは間違っていない。
しかし、日本に住まない国の人から見れば、空気を読んでいる人たちの姿は、まるで「学校の先生の言うことを忠実に従う生徒」だったんだと思う。もちろん、「空気を読む姿」の背景には、日本文化の中枢にある「思いやり精神」がある。決して悪いことではない。
ただ、「この思いやり精神があるから、自分たちは暗黙ルールに従っているんだ」ということを彼らに知らせなければ、日本人は「言いたいことも言えず、他人の言いなりになる子ども」と思われてしまうのだと思った。
「空気を読む」ということ。日本独特の感性であり大切にしていくべきものである一方、空気を読んでいる人の姿は「学校の生徒みたいな人たち」と見られることがある事実は、今後も自覚しておかないといけない。
「どっちでも大丈夫」
「〜と〜のどっちが欲しい?」
「たぶんどっちでも問題ないよ」
ここ2ヶ月、僕はこうした言葉を何気なく使っていた。日本では良く使われている言葉だし、他人を不愉快に思わせることもないだろうと思った。でも、こうした言葉を使っていくうちに、何度かカウチサーファーから言われたことがあった。
「どっちでも大丈夫じゃなくて、あなたが決めるべき。」
「欲しいものは自分で選ぶから気にしないで。」
「たぶん?たぶんってどういうこと?あなたが良いと思う方を聞いているの。」
こうしたことを言われて思ったことは、どこの出身の人とのコミュニケーションであれ、「自分で決めるべきこと・他人が決めるべきこと」をはっきり区別しないといけないこと。そして、自分の意志をはっきり伝えること。
これは「単なる会話」で済まされることではない。もし、自分が決めるべきときに他人の意思に従ってしまえば、自分の選択権は時間とともに失われて、あとから「自分で決めたい」と思っても手遅れなことがある。
バイトのシフト提出もそうだし、友達との遊ぶ予定もそう。また、仕事のミーティングでの決めごとや役割分担の場合も同様。自分が決めれるときに、それを他人に決めさせることは、「他律的」と言っておかしくない。
このように、カウチサーファーの人との会話ではっきりと気づいたことは、いつのまにか自分は他律的な考え方になっていたということだった。選択肢が多くあるときは、1つに絞り込むまで真剣に考えないし、選択肢があることを大切なとと考えることはなかった。
逆に、馬場下ハウスにきたカウチサーファーのほぼ全員が自律的であり、自分が選べる範囲では自分ですべてを決めていることにも気づくことができた。
そのため、カウチサーファーのみんなは、自分で選べるときに選ばない僕の行動を怪訝そうに見つめ、自分が選べるときには自分で選んだ方がいいと言ってくれたんだと思う。
もちろん、僕の行動の裏には、カウチサーファーの人たちが思う存分楽しめるように、思いやり精神を発揮していたつもりだった。でも、その思惑は思わぬ形で働くことが多く、日本人に通用するような思いやりは無用であった。
「思いやりを軸とした他律」と「権利を軸とした自律」。
どちらを使うかは個人の自由だが、思いやりを軸にすると、他律的な振る舞いになることをこの2ヶ月で一層自覚した。
以上。カウチサーフィングで感じた、ちょっとした思いはこの辺で。
他にもいろいろと感じたことはあるけれど、今ぱっと思いついたことはこの3つ。今後も参考になると思うため、ブログとしてメモらせていただきました。
あ〜今日も暑い…!!!
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