2012年6月24日日曜日

備忘録


【客人リスト&予定@馬場下ハウス 】
6/24~25 Damian (ドイツ)
6/25       どんぶり氏の後輩たち
  (小川くん&他数名)
6/27~29 Berta (スペイン)
 Max(スウェーデン)
7/2~5     Tuomas(フィンランド)
7/3         早稲田応援部3名
 (早稲田の誇り)
7/9~12   Lotus, Rosa, Signe
 (デンマーク)
7/19~20 Jake, his girlfriend(中国)
7/20~27 テスト週間
(さようなら早稲田)
8/1~31   あげお海外渡航(1〜2週間程度)

2012年6月22日金曜日

No47. 早稲田の宿 ”BABASHITA HOUSE”


早くも3ヶ月。

千葉の西船橋から馬場下に引っ越して、3ヶ月が経った。以前は一日2食の一人暮らし。一杯200円程度の牛丼が、僕の心を潤していた。

【当時の生活費】
食費30000円
交通費5000円
通学時間50分
家賃63000円
光熱費7000円
計:10500円

一人暮らしのときは、コスト面が高くストレスフルな生活。虫もでるし、夏は暑く、冬は寒い。家に帰っても、飯はないし、買いに行く場所も近くにない。”Oh my god”な毎日だった。

馬場下ハウスに来てから。

しかし、今となっては、それは過去の話。馬場下にきてから、コスト面のみならず、自分の心を潤してくれるものが変わった。まずは、全面的なコストダウン。

【いまの生活費】(前年比)
食費15000円 (↓15000円)
交通費0   (↓5000円)
通学時間5分    (↓45分)
家賃32500円 (↓30500円)
光熱費8000円  (↑1000円)
計:55500円 (↓45000円)

特に、食費が抑えられているのは、一緒に住む”丼野郎”と”ボクサー”のおかげ。3人とも、低コストの食材で、3人分の料理をつくる。これにより、単品で作ったときよりも食費が浮くのだ。ちなみに、それぞれの得意料理は、丼野郎は海鮮系、ボクサーは天ぷらと肉食系、僕は「大根おろし」一品である。


心を潤してくれるもの。

そして、今の僕を潤してくれるのは、これだ。”飯うま”と”来客人”。

”飯うま”といえば、海鮮丼や天ぷらをはじめとして、品川揚げ・3種の肉料理(鶏肉、豚肉、牛肉)・コッチュジャンクッパ・青葉巻きなどがあった。ちなみに海鮮丼のネタは、「大トロ、中トロ、うに、いくら、エビ」。ヨダレの出る最高傑作であった。


”来客人”は、早稲田生や他大生はもちろん、高知から出張中の方、作家志望の方、飯だけを食べにくる乞食どもなど、さまざまである。リピーターはやはり、この3人。イタリアン系男児(しぶ)とアジアの巨乳(よしみ)、早稲田応援部の孤高(ぐれこ)である。リピーターには、ほんとに感謝している。

日本人だけに収まらない、馬場下ハウス。

今週日曜に、ドイツの方が馬場下にくる。えぇ、緊張します。いままで馬場下に、他の言語を扱う人はいなかったため、僕たちは戸惑うだろう。僕自身、英語を話せた試しないし、家に泊まるなんて考えたこともない。でも、たのしみだ、ドキドキ…。来月にも、デンマークの女の子3人組とアメリカのカップルが来る。「日本に来てよかった!」って、言わせたいものだ。はっはっは。

最高の思い出に。

と、まぁ惚気臭い話をしてしまった。でも、”僕らは今日も生きている”的なニュアンスも込めて、「馬場下ハウスは今日も幸せだ」。あと1ヶ月で、大学生活は終わってしまうけれども、いまの幸せをしっかり噛みしめたい。もちろん、馬場下生活はまだまだ、つづく…

木製ソファを壊して動揺する丼野郎

2012年6月21日木曜日

No46. "あなたのことが羨ましい"


「もっと生きたい…」

袖を濡らしながら、
そんな言葉をつぶやきたい。

僕という人間は、自分の心と向き合うのがとっても下手なんだと思う。だから、心の充足感に気づかない。他人の心や周囲の期待に応えることは、得意。自分の気持ちを考えなくいいから。でも、自分の感じるものに気づくこと、それはむずかしい。

自分と他者、両者からのOK。

ここ15年間、「自分からのOK」と「他者からのOK」のバランスが、とれていなかったかな。小学時代は、前者がいちばん。中高・大学時代は、後者がいちばん。どっちにしても、その後の反発は大きかった。いまの僕は、「自分からのOK」を得たい。精神的な飢餓感があるから。これからの人生、その繰り返しなのかもね。

自分からのOK:自己実現

自分からのOKとは、なんなのか。具体的には、自分の気持ちに通じる振る舞いができること。

母「りんごとミカン、どっちが好き?」
子「りんご!」

母「りんご、たべたい?」
子「たべたい!」

母「じゃあ、どうぞ。」
子「いただきます!」

相手からどんな質問をされても、「自分はこうなんだ。」「こうしたいんだ。」って心から言えたり、そのように振る舞えること。

他者からのOK:他者からの承認

一方、他者からのOKは、なんなのか。具体的には、他者から最終的に認めてもらうこと。

自分「◯◯で働いてる。」
友人「すごいじゃん!」

自分「結婚したんだ。」
友人「おめでとう!」

自分「子どもいるんだ。」
友人「いいな〜!」

自分のことを伝えたり見せたりすることで、誰かから驚かれたりほめられたりすること。

もっとしあわせを感じたい。

正直、いまの僕は、他者からのOKを第一義にすることはない。自分の感じるものに、もっと向き合いたいから。

長生きしたい…
きれいなものを見たい…
ひとに会いたい…

そんなことを思えるようになりたい。これが、いまの僕のねがい。

2012年6月20日水曜日

No45. 「知らなかったでは、すまされない」


今年は、死んでも渡航する。

そんな心持ちで、渡航に向けた下準備をしてる。「知らなかったでは、すまされない。」これが、渡航において重要なことだろう。以下、いろいろ調べてみた事を、載せてみる。

フリーターには、取得できないビザがある。

タイへの渡航を計画していたのだが、大学生のうちに渡航を一度経験した方が良い事がわかった。フリーターになってからでは、取得できないビザがあるからだ。ビザには種類がいくつかある。でも、一番ハードルの低い観光ビザでさえ、フリーターへの風当たりは強い。※ビザなしでも30日以内の出国予定であれば、入国可。
参考URL:「タイ王国.com」(http://www.thaiokoku.com/fundamentals/passport_visa.html)

携帯は、現地調達か、契約変更。

こんなの、当たり前なのだろう。日本向けのパケ放サービスは、国外では機能しない。それを知らずに、渡航先で携帯を使うとアウト。数十万の法外な通信料が請求される。僕は、知らなかった。渡航先でも、パケ放だと思っていた。用心。
参考URL:「J-CASTニュース」(http://www.j-cast.com/2008/11/12030240.html?p=all)

海外でも使える、日本の国民健康保険。

「診療内容証明」と「領収明細書」があれば、帰国後に7割が還付されるそうだ。(国民健康保険が認める医療と金額の範囲において)もちろん、クレジットカードや海外旅行保険でも、治療費の完全負担を免れる。身と財布を守るべく、要チェック。
参考URL:「タイの病院」(http://www.zizaizin.com/タイ-ロングステイの手引き/タイの病院-治療費の支払/)

2012年6月19日火曜日

No44. ”武者震い”はとまらない


パスポートの申請。

今日一日で、パスポートの申し込みを済ませた。その際、はじめて戸籍謄本を取得した。家族構成、旧姓、生年月日。あらゆる情報がそこには記載されていた。もちろん、父の情報はあったものの、”除籍”となっていた。母は、どのような気持ちで、この戸籍謄本を見ていたのだろうか。そんなことを考え、手続きを済ませた。

臆病な、小僧。

パスポート申請には理由がある。それは、一歩を踏み出すことだ。残念ながら、大学時代の僕はひどく臆病者であった。ふだんは大風呂敷を広げて「なんでもできる」と調子に乗っていた。地方に出向いて働く学生を軽くみたり、海外に憧れて旅行する学生を影で笑っていた。ときには、アメリカにインターンに行く友人を見て、「俺も金がありゃ、できるわそんなもん」と舐めてかかった。

しかし、自分の事となると、状況は一変した。たった3万円相当の旅行でも、翌週の食費や学費が足りなくなることを恐れた。「なくなったら、どうなる」、「いまは我慢だ」。言い訳ばかりを考えていた。しかも、パスポートに必要な1.6万円を出すことでさえ、4年間渋り続けた。武士で例えるなら、ふだんは刀を腰に据えて道を闊歩するものの、いざ戦となると、途端に刀を隠し農民に変ずる、情けない奴であった。

なるべくして、小僧になった。

たしかに、「お金がない」というのは事実であった。実家の所得は、年間150万円程度の遺族年金のみ。母は、危篤状態の祖母を看病しているため、働けない。もちろん、遺族年金があるため生活保護の対象外。この事実を、大学1年のおわりに聞いたものだから、一瞬で”小僧”になってしまった。ビクビク、震えながら、4年間生きてきた。

小僧は、カッコ悪い。

でも、いまの僕は、”小僧”をやめた。なぜなら、小僧はどこまでいっても小僧にすぎず、ちいさくなるだけだったから。いっそのこと、環境ごとガラッと変えたほうがいい。そのぐらいの覚悟になった。

家族のこととか、お金のこととか、名誉のこととか。こんなことを考えて、縮こまってても、なーんにも、僕に与えてくれない。与えてくれるのは、不安だけ。だったら、与えられる生き方はやめて、自分から飛び込んでいこう。もっと、もっと、進んでみよう、と。

”武者震い”はとまらない

いま、自分が持っている刀では、戦場のいつ・どこで折れるかわからない。もしかしたら、刀を交えた瞬間に折れるかもしれない。その恐怖を感じながら、いま、立っている。


2012年6月14日木曜日

No43. 「3K」×「不安定」=「フリーター」



フリーターになることの危うさ

当たり前なことだが、楽な人生を送りたければ、フリーターは絶対にやめたほうがいい。フリーターという選択肢は、就業機会・生活設計・キャリア形成の3点において”マズイ”からだ。

就業機会:「年とっちゃうと、限られてくる」

30代になって「正社員になりたい」と思ってもなかなか就職できないと思う。僕は若造であり、まだそのような経験をしていない。でも、わかる。フリーターしか経験していない労働者は、面接にも応じてくれないだろう。そんなもんだと思う。特に、「とりあえず〜」、「なんとなく〜」という優柔不断な意思決定のもとで生きた人なら、尚更そうなりかねない。

生活設計:「結婚したいんだけど・・・」

フリーターのデメリットは、就業機会のみに限らない。結婚相手の親にも不審に思われ、子どもにも心配をかけ、マンションを買うにも銀行からお金が借りられない。さらには、親が病気になったら、入院・介護費用もかかる。ここまで考慮にいれると、フリーター人生は、最悪である。だから、何も考えずにフリーターになってはいけない。こうした最悪の事態を、覚悟しないといけない。

キャリア形成:「ひとりでは食っていけない」

デメリットの極めつけはこれ。フリーターという職業経験では、生計を立て得る職業能力は身につかない。フリーターで全うできる経験のほとんどが、入門レベルに終始してしまうことが多い。そのため、フリーターという生き方にどれほどの価値を見出すことができても、そこには正社員ほどの成果を得ることはできない。残念ながら、フリーターに任される職務範囲では、キャリア形成にまで結びつく体験は少ない。だからこそ、フリーターになる以上、自分自身でキャリア形成を行わないといけない。

総じて:フリーターになるって怖いことなんだ。

1時間ほどかけて、図書館で「フリーター」について調べた。1冊1冊、読み進めていく上で実感したことは、「フリーター人生は”マズイ”」ということだ。おそらく、なにも考えずにフリーターになると自滅するんだと思う。

一日、一日、気づかないうちに足場が崩れていく。最後には、いま立っているところにしか立てなくなってしまう。フリーターであり続けることは、こういうことなんだと思う。もちろん、フリーターという立場を利用してキャリア形成を積めば、問題ないだろう。ただ、”なにもしなかったら、どうなるのか?”という問いは、今後も考え続けなければならない。


参考文献
『ニート・フリーターと学力』佐藤洋作、平塚眞樹
『フリーターという生き方』小林礼子
『「働きたくない」というあなたへ』山田ズーニー

No42. ”14歳”が再びやってきた


 

これこそ、14歳の強さ。

”14歳”といえば、中2。あのときから8年たった今、久しぶりに中2になった気分だ。あらゆることに対して反抗期。「当たり前」と思うことに疑問を持ち、「押し付けられた概念」は吹き飛ばす。正論を嫌い、ニッチなことを好む。大多数の意見を嫌い、争い事はしない。じっと、活躍の時を見計らう。

中2病が、唸りをあげる。

一般的に、こうした状態を中2病と言いますが、認めます。僕も中2病です。しかも、中2病とバカにされても、怖気づかない重度です。役立たずと言われようが、カッコ悪いと言われようが、構いません。なぜなら、自分に自信を持つキッカケを見つけることができ、一人になっても歩き続ける強さをもてるからです。もちろん、この中2病は、今に限ったことではなく、これからの人生のなかで何度もやってくると思います。特に、心が折れそうなときや、見通しの立たない状態になったときに。

灯台もと暗し。

ただ、中2病で用心すべきは、木を見て、森を見ずという状態である。中2病でよくあるダサいことは、我が強くなりすぎて客観性を失うこと。徹底的なこだわりを持ちすぎて、反論や批判に耳をよせないことである。一度こうなると、自滅する。第3者のみならず、関係者からみても思考の幅が狭く、考えが浅くなる。結果、感情だけが爆発し、言動が突発的になってしまう。非常にこわいことである。こうなるのは、絶対に避けたい。

中2ファンタスティック。

しかし、この弱点さえ潰せば、中2病はプロテインみたいなもの。一度かかってしまえば、大したことでは心は折れない。「バカじゃねえの?」、「うまくいくわけないだろ、アホ」、「君、失敗するよ」と言われても、効かない。中2病に聞こえてくるのは、いつか言われるだろう「すげえ」、「桁外れだね」、「勝てねえわ」という賛美。いまの評価に動じないこの強さは、ハンパない。いまの僕は、これに似たような状態を保てている気がする。「クズといわれてもいい。」そんな心持ち。

中2病になったわけ

ちょっとだけ、精神論的なものを書きすぎた。でも、ここで改めて考えたい。なぜ中2病になったのか?結論からいえば「目先の結果にこだわる生き方を捨てたから」である。ここ1週間、自分の生き方についてずっと考えていました。

「大卒という特急券を使わず、フリーターという普通列車でよいのか?」

家族からの忠告もあり、僕は大学4年間、特急券をずっと握りしめていた。時には、特急券を捨てようと思ったときもあった。でも、捨てたあとに誰からなんて言われるのか怖かったし、使うのが当たり前と思っていた。しかも、特急券のおかげでキラキラした地位を手に入れている先輩も多かった。だから、ずっと捨てられなかった。

でも、今の僕は、特急券は使わないことにした。なぜなら、僕が中3のときから憧れ続けた生き方は「普通切符からはじまる人生」だったからだ。この生き方は、僕にとって大事な理想である。その理由は、僕の高校受験にまで遡る。

ある本との出会い。

僕は、高校受験で失敗した。4戦3敗。受かったのは、受験当日に「こんな学校、受かっても行かねえよ。」と笑っていた学校だった。第一志望校の不合格が決まった当日、中学で使ってきた参考書を家の壁に投げつけ、地面に頭をすりつけて泣いた。悔しくて、悔しくて、涙は止まらなかった。クシャクシャにしたプリントを地面に叩きつけながら、不合格になった自分を恨んだ。

「自分はこれからもずっと失敗しつづける。だめだ、だめだ。」

そんなとき、ある1冊の本を、母が渡してくれた。それは、稲盛和夫さんの「君の思いは必ず実現する」という本だった。

僕に届いた、稲盛さんのことば。

稲盛さんは、当時の僕と似た境遇にあり、失敗ばかりの10代を過ごした人だった。1ページ、1ページと読み進めていくうちに、自分と稲盛さんが重なっていくような気がした。

なぜなら、稲盛さんの10代のころの考え方は、僕の考え方と似ていたからだ。失敗するたびに、他人や環境のせいにして、不満ばかりを口にする。がんばって努力しても、また怠けて、人の期待を裏切る。まるで、僕のことが書かれているようだった。そして、その考え方から卒業した稲盛さんの言葉が、僕の胸に刺さった。この言葉は、23歳の稲盛さんが、自分を変えようと決断したときの言葉です。

「世の中をすねてうらんでも、自分の人生がうまくいくわけがない。たしかにいままで運が悪く、何もかもうまくいかなかった。でも、きっと神様は人生を公平に見てくれるだろう。だから23歳までは不幸だったかもしれないが、これからの人生の中で神様はわたしに幸運を授けてくれるかもしれない。だから、これからは人生を前向きに明るく生きていこう。」

稲盛さんのような人になりたい

この言葉を読んで、当時の僕は稲盛さんのようになりたいと思い、大学受験で成功することを決心した。幸運にも、努力は報われ、大学受験は成功した。稲盛さんに、感謝御礼でした。しかし、若さというものは「浅はか」なるかな。愚かにも、大学に入ると稲盛さんの言葉も忘れ、僕は遊び続けました。

もちろん、仕送りは貰わずバイトに精を出したものの、その生き方に稲盛さんのような信念はなかった。4年の月日はあっという間に過ぎ、22歳を迎えた。当然のごとく、他人や環境のせいにして努力を怠る自分に戻っていた。

「これでは絶対にいけない。元も子もない。一生後悔してしまう。」

4年が経って、やっとあるべき姿に気づき、原点回帰した。そしてもう一度、稲盛さんのような生き方を目指そうと思ったわけです。

「フリーターは、破綻寸前の会社に入社した若き稲盛さんと同等の道。誰もが憧れる道ではなく、だれもが歩ける道。この道から懸命に歩きはじめよう。」

普通列車での出発

こうして僕は、特急券を使わず、フリーターという普通列車に乗ることを決めた。そして、いまの僕が”14歳”のような気持ちでいられるのは、この列車に乗る前の高揚感のおかげだ。行き先もわからない、ゆっくりとした普通列車。後ろからどんどん特急列車が過ぎていく。間違いなく、この普通列車の数年先には、挫折が待ちかまえている。

それがわかっているからこそ、”14歳”のような気持ちに酔い浸ることができる。とてつもない不安と焦りが、武者震いを起こさせ、気分が高揚する。すごくいい。

誰にだって、これから先のことはわからない。それでも僕は、目先のことにこだわることなく、稲盛さんのような生き方をしたいと思う。

「僕の思いは必ず実現する」

遅くたっていいんだ。いつか神様は幸運を授けてくれるかもしれない。
だから今は、稲盛さんと同じく、前向きに明るく生きていこう。

2012年6月12日火曜日

No41. ”ウソ”からの逃走


ある言葉に、違和感。

今日、朝の11時ごろから大学の自習室にこもり、このブログを見返した。我ながら、恥ずかしいことをいっぱい書いてることに気が付き、「消したい」という衝動に何度もかられた。

それを我慢し、じっと見ていると、No37.”行動”と”思い”の断絶「思いを突き通す勇気がなかった」という言葉が気になった。なんか、違うな〜、と。

なぜなら、僕の性格は、誰かと意見が対立した際、相手が折れるまで自分の意見を突き通そうとするタイプであるからだ。自分が書いたものにツッコミをいれるのはおかしな話だが、「勇気がないわけではなかった」と思った。

そして、ふと思った。「勇気があるなら、なんで4年間もずっと、自分の思いに沿った行動をしなかったのだろう?」その問いを、自分に投げかけた途端、凄まじいことに気がついた。

自分に”ウソ”をつくのは日常。

自分にウソをつかない人には理解できないかもしれませんが、大学時代の僕は、自分にウソをつくのが当たり前だった。入学してからの数年間、友だちや家族と話している時を含めてどんな時でも、自分にウソをつき続けてきた。もちろん、ひとりでいるときにも、自分の思いにウソをついて、欲望をねじ伏せた。

というのも、自分の思いのせいで誰かと対立するより、自分が先に折れたほうが楽だったし、他人との揉め事も起こらなかったからだ。そして、そのほうが人間関係もうまくいくと思った。「人と対立しなければ、自分の思っていることはどうでもいい。ウソも方便」と思っていた。

自分を裏切った、”ウソ”。

しかし、今はそう思えない。なぜなら、自分の気持ちをダマしたことで、思いを叶える意欲がなくなったからだ。思いとは違う行動をとり続けたせいか、自分のことでも他人事のように感じ、どんな失敗をしても悔しさを感じなくなった。さらに、自分のために頑張るエネルギーがなくなり、一生懸命になることの意味を失った。数年もの間、自分の思いを裏切り続けることで、こんな状況になってしまったのだ。

”ウソ”からの逃走。

そんな自分を変えるため、僕はいま、自分の思いをブログを通じて毎日発信している。少なくとも、思いを発信することでその思いを自覚し、自分へのウソを最小限に抑えようとしている。もちろん、ブログに書く内容は一切妥協せず、自分の思いに忠実でありたい。なぜなら、このブログの指揮官は僕自身であり、世間体ではないからだ。世間体を気にしていたら、元も子もない。それだけは、気をつけたい。

P.S.

ちょっと強気になって「指揮官は僕自身」とか言ってしまったが、ブログを更新するたびに内心びくびくしていることだけは、読者の方にも伝えておきたいです。時々、強気なことを言ってしまいますが、僕はブログを更新するたびに「穴にもぐりたい」とぶつぶつ呟いていることだけは認めます。

今日のブログは話のまとまりがなかったことを、明日反省したい。約2時間後にせまったサッカー日本代表戦で落ち着きがないため、この辺にします。

2012年6月11日月曜日

No40. ”怖い”ものは”怖い”



何も決まっていない、その怖さ。

これは、一昨年ごろから強く感じるようになった。幼い頃は、そんなこと気にせずに、欲しいものを手に入れ、やりたいことをやる。その強さがあった。今は、その勢いが衰えかけて、何も決まっていない状況に怖さを感じている。「どうせ死ぬんだから、なんだっていいじゃん。」と思う自分がいる一方で、「なにをしたらいいんだろう。」と思う自分もいる。

大切にしたい、この怖さ。

こうした気持ちは、なにもしていない時にしか、基本的には生まれないと思う。なぜなら、なにかをしていれば、それに心を奪われ、不安なんか感じている場合じゃないからである。いまの僕も、この怖さを今すぐなくそうと思えば、すぐになくせる。なにかに心を傾ければ、それでいいから。

でも、なぜかいまは、この怖さを感じていたい。この怖さを感じているとき、挫折した人の心情や失敗した人の心情を普段以上の感度で感じることができる。「どうしよう、どうしよう」と思いながらも、自分の目の前にみえる光景は、頑張っている時とは違う形でみえる。だから、いまはそれを感じて、そこからなにかを学びたい。この怖さを、大切にしたい。

過去に戻っても、怖いのだろう。

いま、この瞬間に過去に戻れたとしても、この怖さは変わらない。なぜなら、過去に戻っても、なにをしたらよいかは何も決まっていないからである。皮肉なことに、過去に恐れなかったことを、今になって恐れるようになった。情けない話だ。結局のところ、この怖さは、自分が勝手に創りだしているものなのである。つまり、自分が勝手に恐れるようになったものであって、なぜか自然と身についた感情である。

もちろんこの感情が、どのようにして生まれたかは、わかっている。それは、これまでの十数年間で、なにもしていないことを恐れる人たちを見てきたからであり、「なにもしていないことは良くないことだ」と教育されてきたからである。そのため、自然と他人の目を気にして、なにもしていない時間を恐れるようになった。その結果として、10年前と比べて、目の前の光景は大して変わっていないのに、全く同じ光景を見て怖がっているのである。自分は何やってんだか。いや、他人ごとではなく、僕はこの事実を自分のこととして受け止めないといけない。

この怖さと、うまく付き合う

それでも、いまの僕は、この怖さをなくすつもりもないし、悪いものだと思っていない。それは、この怖さがあることで、ある程度の緊張感を持つことができ、一日を大切に過ごすことができているから。昨日だって、この怖さのおかげで自分を追い詰め、「このブログでしたいことは、好き嫌いを見つけることなんだ!」と気付くことができた。今日もそう、朝からなにもしていないことを勝手に怖がることで、「あ、俺、こんなに怖がってるけど、10年前と状況は同じじゃん。見た目は大人、中身は子ども。笑」という決定的な事実に気付くことができた。

好きだよ、怖がるの。

結局のところ、この恐怖があるからこそ、自分がしている事の意味や物事の本質に気付くことができる。取り越し苦労にはあらず、取り越し恐怖。僕は、この恐怖が大好きである。







No39. なぜ”フリーター”なのか



思いを言葉にする事と”フリーター”になる事は別物

”好き”と”嫌い”を発していくこと。これによって、自分の思いを言葉にする目的を達成することができる。僕の中では、ここまではハッキリとわかった。しかし、自分の思いを言葉にする時間が欲しいから、”フリーター”になりたいというのは別物。なぜなら、フリーターでなくても、それはできるからだ。だったら、僕はなにがしたいんだろう。フリーターになって、なにがわかるんだろう。

”叶えたい夢”


今年の5月16日に書いたブログでも書いたように、いつか「15歳のときの自分が救われたように、その年代の後輩たちを手助けしたい」という夢を叶えたい。15歳の時、僕は「このままの生き方ではいけない」という危機感を抱いていた。自分の意志をもつことなく、誰かに自分の生き方を委ねて、責任転嫁をし続けていた。当時の僕は、そんな自分の生き方に終止符を打ちたかった。

そんなとき、「稲盛和夫さんの本」と出会った。結果的に、自分自身の力で人生の舵を握ることができるようになった。これは、当時の僕が歩んできた人生のなかで、最大の転機でした。この転機、この人生を変える瞬間を、当時の僕と同じ10代の子たちに届けたい。これが、僕の今の最大の夢である。

”夢”を叶えるには

「どうやったら、この”夢”を叶えることができるのだろうか。」僕はこの問いを自問自答し続けている。そこで、今の僕の中でひとつの答えが出ている。それは「社会的地位が低く無力な状態から、努力と失敗を重ね、大きな成功をつかむこと」である。僕は、この種の成功体験が絶対条件として必要だと思っている。なぜなら、僕が「稲盛和夫さんの本」を読んで、自分の人生を変えようと決心できたのは、稲盛さん自身がそのような人生を送ったからであった。

「中学受験失敗、結核という大病、大学受験失敗、破産寸前の会社への入社」という境遇にあった稲盛さんは、「運命は自らの力で変えられる」と信じ、何十年という努力と度重なる失敗を経験しました。その結果、京セラとKDDIを一代で築きあげ、数万人の雇用を生み出しました。

稲盛さんは、低い社会的地位であったのにもかかわらず、相当な失敗と挫折によって、これほどの大業を果たしたのです。だからこそ、当時の僕は、稲盛さんの「運命は自分の力で変えられる」という言葉を信じることができ、自分の人生を変えようと決断できたのです。稲盛さんのような、これほどの境遇が、僕の夢を叶えるためには絶対に必要なのです。もちろんそれは、とても無謀なことなのですが。

”夢”と”フリーター”

それでも僕は、死ぬまで、この夢に挑戦したい。たぶん、叶うことはないと思います。たとえそうであっても、「稲盛さんと出会い、稲盛さんの言葉によって人生を変えることができた」人間である以上、僕もまたその後継者でありたいです。だから、その夢に挑戦したい。そして、”フリーター”になるという決断は、この夢と密接に関係しています。なぜなら、僕もまた、若いころの稲盛さんと同じスタートラインに立つためです。

僕は、幸運にも、大学受験に成功し、20歳前後の人たちのなかでは非常に恵まれた環境で育ちました。しかし、これは僕の”夢”を叶えるにあたっては、あってはならないことなのです。このまま僕が、大企業に就職したり、先輩の成功体験に便乗する形で一緒に走っていては、決して稲盛さんのような人物にはなれません。それどころか、”夢”から遠ざかるばかりです。

なぜなら、今の僕がこのまま成功し続けても、10代の子たちに感動を与えることは100%ないと思うためです。そしてもし、若き頃の稲盛さんが、今の僕と同じ境遇からスタートしていたのなら、15歳の僕は「自分の人生を変えよう。自分の運命は自分で変えられる。」と決して思わなかったはずです。若い頃から成功し続けている人には共感できなかったからです。だからこそ、僕はいまの自分の境遇に違和感を覚え、立ち止まりました。

「本当に、このままでいいのか。」

こうした考えのもと、多くの犠牲を払い、さまざまな選択肢を失うとわかっていても、”フリーター”というスタートラインから自分の人生をやり直すことを、僕は決めました。



2012年6月10日日曜日

No38. "思い"を"言葉"にしたあと


"思い"、"思い"、"思い"。

僕が、"思い"ということばに、ここまでこだわっている理由を考えてみた。間違いなく言えることは、自分の"思い"をないがしろにしてきたこと。そのときには気づいていなかったが、なにかをするときには、母の考えや兄の考え、身近な友人の考えがチラついていた。

チラつくというのは、些細な事かもしれないけど、それらが僕の振る舞いに与える影響は非常に大きかった。そして、その影響力に負けて、自分の”思い”はたいていの場合において二の次であったと思う。これを克服したい。そこに端を発して、僕の”思いを言葉にしたい”発言がはじまった。

”思いにこだわった先には何がある”

でも、ここからが大事なことなのだが、”思いを言葉にできるようになったら、どうするの?”っていうこと。”思いをないがしろにしてきた”という大きなコンプレックスを抱えている今の僕は、目の前のこの問題を解決することに躍起になっている。しかも、僕の性格上、これを解決するまでは後先のことなんて考えやしない。

ただ、このままでは”やばいんじゃないか?”という直感がある。”後先も見えないまま突き進んで、もしそこに何もなかったら、どうなるんだ”という不安がある。そこで、もう少しこの先のビジョンを鮮明にするために、新たな問いを自分に立ててみた。

”思い”を”言葉”にするとは、なに?

考えてみると、いろいろ思いつく。いま考えていることを言葉にすること。頭の中に浮かぶものを言葉にすること。本当の思いを掴み、それを厭わず伝えること。

でも、どの答えも似たり寄ったりで、本質を突いたものに感じない。たぶん、どれも違うと思う。なぜなら、どれも単なる言い換えであって、心の底からにじみ出たものではない。では、なんなのだろう、”思いを言葉にする”って。

”思い”にここまでこだわる本当の原因


そこで、”思い”にこだわる原因をもう一度考えてみる。僕が”思いを言葉にすること”にこだわっている本当の原因、それは自分の思いを二の次にし続けたことであった。これは、冒頭でも書いたとおり。つまり、いまの僕が一番したいのは、自分の思いを二の次にせず、最優先事項にすること。そのために、こうしてブログを書いて、自分の思いを探り、鮮明な形で言葉にしようとしているのだ。

でも、単に”切実に思うこと”を言葉にしていても、なかなか自分の思いは見えていない気がする。それは、切実に思うことを説明しているにすぎないからかもしれない。”自分の色”がないのかもしれない。なぜなら、僕は自分の好きとか嫌いといった、本当の気持ちを隠しているから。


"好きなものを好きって言いたい、嫌いなものを嫌いって言いたい。"

僕は”思い”を”言葉”にすることで、本当の気持ちである「好き嫌い」をハッキリさせておきたいのかもしれない。いままで、家族や友人などの考えを優先していたために隠し続けていた、湧き上がる感情。それを押し殺してきたからこそ、今になって、それらを言葉にしたり行動に示すことで、今まで感じることができなかった”生き生きとした振る舞い”を実現したいのかもしれない。”これが好き”、”これは嫌い”。

そういう気持ちを言葉として発することで、自分のアイデンティーを見つけようとしているのかもしれない。だからこそ、今の”出しきれていない感情”をフルに引き出そうと躍起になっている。感情を示せれない自分を、もったいないと感じている。僕は、自分の”好き”と”嫌い”を見つけたい。”思い”にこだわリ続けるのは、”気持ち”を示したいということなんだと思う。

もう一度、問う。”思いにこだわった先には何がある”

感情を見せれる自分。なにかを好きといい、なにかを嫌いといえる自分。これが、”思い”を”言葉”にできるようになった先にあるもの、だと思う。”好き”と”嫌い”を他人に見せることを恐れてはいけない。自分の気持ちを隠してはいけない。そう自分に言い聞かせながら、”地に足のついた自分”を見せたい。こうした潜在意識が、いまの僕にある。

おそらく、こうした願望は多くの人にとって中高時代に育まれるものだと思う。もちろんそれは、反抗期や進路選択の際にうまれる刹那的な願望とは別のもので、日常のなかで誰もが持ち続ける願望のことである。

例えば、今使っているノートやボールペンを選んだ背景に隠れた願望や、いつも通う喫茶店を選ぶ行動に隠れた願望といった、日常的なものである。

僕はこれまで、その願望を意識することがなかったため、自分の気持ちが行動に反映されることはほとんどなかった。誰からも評価されうるものを無難に選ぶことで、自分の潜在的な感情が否定されることを避けつづけていたのである。

でも、いまのこの瞬間、そういう自分に耐え切れなくなった以上、いまの自分を変えたい。

他人に否定されても、好き・嫌いを見せられる自分

そこを目指して、いまの僕は”思い”を”言葉”にすることにこだわり続けている。

2012年6月9日土曜日

No37. "行動"と”思い”の断絶


今更きづいた。

この4年間、理由を考えすぎた。

◯◯をしてきたんだから、これ。
◯◯なんだから、あれ。

なにを始めるにしても、このような考え方で行動してきた。誰かに説明できるようにするため。

でも、その考え方を続けてきたせいか、自分の行動に思いをのせることができなかった。ほとんどの行動が、誰かに説明するためのものであって、心の底から沸々と湧いてきた情熱によるものではなかったからだ。

「どうやってそれをしたの?」と聞かれれば「これまで〜であったため、〜という理由でしました。」と素直に答えることは容易にできる。でも、「どういう思いでそうしたの?」と聞かれれば、「それを望む人がいたから。」と言わざるを得ない。その行動は、自分の情熱によるものではなかった。

思いを突き通す勇気がなかった。

このような結果になってしまったのには、理由があった。僕が本当にしようとした事はどれも、両親の思いを叶えないことを意味していた。

大学2年の冬のとき、多額な大金を払う大学よりも自分の興味のある服飾の専門学校に通おうとしたことがあった。ただの思いつきではなく、誰かに自慢したいわけではなく、「ファッション」を通じて誰かを喜ばせる技術を学びたいと思ったからだ。専門学校の特待生試験に一次合格し、あとは母に説明するだけであった。

「なんで学びたい事がない場所に、こんな大金をつぎ込まなければならないんだ。いま、自分が本当にしたいのは専門学校で学べる事なのに。」

胸からこみ上げてくる怒りとともに、自分は親に思いの丈を話した。「なぜ服飾に興味があるのか。どうして大学で学びたい事がないのか。」を1週間かけて親に説明し続けた。しかし、母からは「あなたが大学を卒業することはお父さんとお母さんの願っていた事。どうしても通い続けてほしい。」と数時間も泣きつかれた。

「ふたりの願いなのか。そうか。。。」と、渋々あきらめざるを得なかった。

僕には2人の兄と1人の姉がいるのだが、大学に通っているのは僕だけであり、親のお金を一番使っている子であった。そのため、亡き父と母の思いを踏みにじることはできなかった。

また、学費は全額自分で払い、大学と並行で通うという選択肢もあったものの、その専門学校に通うためには学費納入の保証人が必要であった。もちろん、賛成してくれる家族はいなかったため、保証人として名前を書いてくれる人がいなかった。

結局、自分の思いを叶えることは一度もなかった。何度も何度も、自分の胸の底から、叶えたい思いが湧き上がる瞬間はあった。でも、両親の思いを踏みにじる勇気はなかった。このジレンマを抱えたまま、時間だけが過ぎた。

思いが伴わなかった4年間

こうして4年が経ったわけだが、自分の思いを叶えられなかったことは誰のせいにもできなかった。家族にも大学にも自分の責任を押し付けることはできない。なぜなら、思いを叶える事はできなかったものの、この4年間をどのように過ごすかを決めた主は、紛れもなく自分であったからだ。

学校の時間やそれ以外の時間、バイトで稼いだお金、奨学金などのあらゆる資源の使い道はすべて、僕が考えた。だから、”思いが叶わなかったのは環境のせい”なんていう情けない言い訳は言えない。

結局のところ、母と亡き父の思いを言い訳にして、バイトと学校だけに手一杯になり、自分の思いと向き合ってこなかったことに原因があった。日々、考え続けた思いなんてなく、思いを深めようとする努力もすることなかった。そりゃあ、思いの伴わない行動が増えるのは当たり前である。

もちろん、誤解を招かないように書くと、この4年間は”思いは叶わなかったものの、かなり充実した4年間”であった。一見、これまで書いたことと矛盾するような話ですが、自分の思いと向きあう事はほとんどなくとも、出会った人や生活費、学費のために”ある種の使命感”を持って行動し続けたことは間違いありません。そのため、僕の4年間を全面的に否定しているわけではありません。

この4年間がコンプレックスとなった今

そうしたことを踏まえたうえで、僕がここで言いたいことは、なにかをするときには”思いが大事である”ということが書きたいわけではありません。”不都合な環境に音を上げて、自分の思いを深める事を怠った”という事実を反省しなければならないということです。

この4年間を経た今、”思いはどれも叶わなかった”という大きなコンプレックスを抱えてしまいました。後悔の念は非常に大きいです。でも、こういう状況だからこそ、このコンプレックスとうまく付き合い、自分を新たに作りなおしていく必要があると思っています。決して、自分の人生を悲観しているわけでもないし、自分の大学生活はつまらなかったということを言いたいわけではない。

次の成長段階に立っている。

そう、自分に言い聞かせているのです。



No36. "ちっぽけな存在"



いま、”フリーター”という生き方からはじめることを決めている。手のひらにも、頭の中にも、秘策なんてものはない。いまあるのは、これまで20数年生きてきた、自分のからだがあるだけ。お金や家族、友人、仕事、そうしたものから一線離れたところに自分の身があるだけ。いまの僕にできることは、今までの短い人生を話すことと、いまの気持ちを言葉にすること。その程度のことくらい。自分にブランドなんて一欠片もない。もしあるとするなら、地に足のついた、あるがままの気持ち。それ以上、僕になにかをもとめても、なにも出てきやしない。

僕は、ちっぽけな存在なんだと思う。

東京の六本木の高いビルに登り、窓ガラスを通して外をみると、1300万人もの人が住む大都市がみえる。眺める場所が、高ければ高いほど、自分の小ささを実感させる。目の前にひろがる大都市には、生きている人すべてが、みずからの幸せを願い、それを手に入れるためになにかをして生きている。ちっぽけな僕が、いてもいなくても変わらないくらい、毎日なにかが、何百億単位で変わり続けている。僕が”フリーター”という生き方を決めたことも、その何百億のなかの変化のひとつ。何百億の変化の、たった1つにすぎないものだと実感させる。

さて、”たそがれ”はこの程度にして、いまやりたいことを書き出したい。それは2つ。週単位でやりたい事と月単位でやりたい事である。

まず、週単位でやりたいことは、「自分という人間をどの程度までことばにできているか」というチェックとフィードバックである。僕にはいま、切実に解決したい問題がある。それは「自分の考えを言葉できちんと表現できていない」という問題である。1日でも早く、この問題を解決したくて、毎日このブログを綴っている。そして、この解決のためには、自分をいつも見てくれている人の手を借りたり、自分自身が変わったと思うことを記録に残していかなければならない。その解決策の一環として、「自分という人間をどの程度までことばにできているか」というチェックとフィードバックが必要なのである。その第1回目として、明日、これまで続けてきたブログのチェックとフィードバックをしたいと思う。

そして、月単位でやりたいことは、週単位でやっていることの力試しである。今年であれば、自分自身という人格を伝えるのに十分なエッセイを作り、これまでの自分に一段落をつけることである。前々回のブログで述べたように、僕は「自分の考えや思いを言葉にすること」を4年間にわたって怠ってきた。その結果、言葉で説明することを厭うようになり、どんな質問に対しても満足といえる考えとその根拠を示せなくなってしまった。特に、文章を書くにいたっては、会話でできるはずの多面的な話もできず、一方的で一面的な薄っぺらい文章しか書けなくなってしまいました。おそらく、この文章もまた、非常に薄っぺらいものになっているかもしれない。それもまた、非常に辛く悲しいことです。その解決策として、まずは”自分という人格を表現したエッセイを作る”こと、それを9月までにやり遂げたい。場合によっては、自分だけのなかに留めず出版社の原稿応募として提出するかもしれないし、永遠に自分のPCのなかに封印するかもしれない。現時点で、そのエッセイの処理については重要でないのでこの程度にしておきます。

2012年6月8日金曜日

No35. ”フリーター”という生き方


いまの僕には、声を大にして言っていることがある。

「卒業後は”フリーター”からはじめます」

でも、そのあとに返ってくる言葉は、誰ひとりとしてプラスなものはない。誰もが、怪訝そうな表情を浮かべて、”フリーター”という生き方に照準を当て、弾丸を打ちはじめる。まるで、僕がその選択肢を選ぶと、死んでしまうかのように。まるで、その選択肢は不正解であるかのように。それがとてもつらい。
「大卒なのに、新卒という切符をなぜ捨てるの?」
「家族はなんていうの?」
「彼女は?」
「大人は何かを背負っていくもの。そんな生き方が続くわけない。」
「具体的になにをするの?」

”フリーター”という生き方に銃口を向けて、止むことなく弾丸を打ち続ける。

こういう問答のなかで、僕は必死に説明する。
「いますぐ解決したい問題がある。」
「怖いことなのはわかっている。」
「選択肢の数を増やすよりも、1つの選択肢を選んだあとの現実と真剣に向き合いたい」
「お金が目的ではない、夢が目的ではない、死んだら後悔してしまいそうな問題と今向き合いたい」
「フリーターという道中を楽しみたい」

誰ひとりとして、納得してくれない。

そのような状況の中、皆に銃口を向けられた僕を見かねて、ある人は教えてくれました。
「あげおが皆に説明している姿は、”雪”を見たことない人に”雪”の存在を説明しようとする姿に似ている。おそらく、あげおの考えていることは誰にも伝わることはないよ。」
もちろん、そのことはわかっている。それでも、僕はなんとか自分が掴んでいるイメージを伝えたい。

しかし、フリーターという生き方に具体性と確信がない以上、言葉の説明だけでは納得させることができない

「小説を書いて賞をとりたい」
「スマートフォンのアプリをつくる」
「世界一周したい」
「中国に留学する」
そういうことでも言えば、皆は納得するのであろうか。きっと無理だ。それだけではダメなんだと思う。

「具体的なプランとそのためにできる努力、それによって生まれる結果。」そこまでを説明しないかぎり、誰も納得はしないんだと思う。

でも、そういう生き方は死んでもしたくない

だれかに納得してもらえる、鮮明なプランに沿って生きるなら、さっさと死んだほうがいい。目的地に向かうための毎日を過ごし、それに心を砕くくらいなら、目的地がない道中、歩いているその時々に味わえる出来事に心を向けるほうが、生きがいがある。人生を探検に例えるなら、歩き心地がよくて舗装された道を探検するのは大嫌い。むしろ、ずっと霧がかかったデコボコした道を唄をうたいながら歩き続けるほうがずっと楽しいし、好き。もしかしたら、途中で岩があり、それに躓いて怪我をしてしまうかもしれない。でも、僕という人間は、「そういう道を歩きながら、辛いことを味わい、それまで一度も気づかなかったことを知るほうが楽しい」と思っている。

”フリーター”という生き方は、そういう道を選ぶことと一緒なんだと思う。あまり人が歩きたがらない道だと思う。なぜなら、"フリーター"という道を歩いたことがある人は、その道の思い出を楽しそうに語ることはない。そして、彼らがその道を歩いていることを大多数の人が知らない。そのため、これから”フリーター”という道を歩きはじめる人は、それがどんな道なのかがわからない。しかも、”フリーター”という道を歩き始めると、「正社員という道まで戻りにくくなる」という”プレミアム”まで付いている。おそらく、”フリーター”という道は、探検する道としては最低なもの。こんな道なら、そりゃあ誰も歩きたくないし、その道を歩こうとする人はバカなんだと思う。もちろん、そこを歩こうとしている僕もまた、バカだと思う。

一方、正社員という道は、きっとすごく綺麗で、歩き心地がいいんだと思う。そこを歩いている人はいっぱいいるし、みんな幸せになるだろう。歩けば歩くほど、道が自分に馴染んでくる。工夫して歩けば褒められるし、歩いていてもなかなか飽きない。さらに、道中には「この道を探検するのは楽しい!」という日記がいっぱいあって、その先の道を悪いという人はいない。本当に良い道なんだと思う。

でも、「正社員という道は”フリーター”という道よりも楽しい」というロジックはいつでも成り立つわけではないと思います。なぜなら、どんな道を選んだとしても、その道が良いから自分の探検が楽しいわけではない。自分の探検の仕方が良いから、その探検は楽しくなるんだと思う。探検をするときには、誰かから命令なんてされないから、脇道に入ったりもできるし、歩かず他のことをやり始めてもいい。決して歩き続ける必要はないし、立ち止まると死ぬわけでもない。しかも、どの道を歩いていても楽しくする工夫はできるし、かっこよくする方法はあると思う。だから、どんな道を選んだとしても、楽しむことが目的ならどっちでもいいんだと思う。今まで歩いていた人たちがどんな経験をしていたとしても、

ほんとうに大事なことは、これから歩く人が、選んだ道に関係なく探検そのものを楽しめることなんだと思う。

一番はじめの話に戻りますが、僕にアドバイスしてくださった友人や先輩は、ほんとうに僕のことを思って、”フリーター”になることを否定してくれているんだと思います。

それは「せっかく道を選べるなら、怪我をしにくく迷いにくい道のほうが良い」という最良のアドバイスなんだと感じます。

だから、そのアドバイスを聞きながらも、”拒否反応”を示すような僕は単なるバカなのかもしれません。でも、どんな批判にあっても、僕の心の底にあるものは、変わりません。

「どんな道を歩いても、工夫次第で探検そのものは楽しめる。」

そう思いながら、これから、霧がかった道を唄を歌いながら歩いていこうと思います。たぶん、共感してくれる人は数少ないし、僕みたいな考え方は無謀でバカバカしいと思う人はいっぱいいると思います。

「かわいそうに、この子は本当に、バカなのね。」

そんな言葉を耳にしながら、僕は僕なりの探検の仕方を見つけてみたいと思います。そして、もしできるなら、”フリーター”という生き方が、肯定的にみられる将来を作れると信じて。

2012年6月7日木曜日

No34. 言葉を失った”傷”



僕には、大学に入学してから大切にしてきた価値観があります。

「言葉ではなく、行動で示せ」
「行動で示せないなら、言葉にしない」

この価値観を大切にしてきたのには、理由があります。

それは、
お金も時間もあるのに、
「願い事」ばかりする自分が嫌いだったからです。

「バイトしたい」
「友だちほしい」
「どこかに行きたい」
「あたま良くなりたい」

大学に入学したころ、
毎日こんな事ばかりを考えていました。
なに一つ叶えようとせず、
”願い事”という日課をこなすだけの日々を過ごしていました。


だから、大学1年の夏に決断しました。

「したいなら、やれ。言葉にせず、やれ。」

それをつづけたのが、
僕の大学4年間でした。


でも、4年がたったいま、
その副作用を引き起こしてしまいました。

「自分の気持ちが言葉にならない」

4年間ずっと、
言葉をいいかげんに扱った結果、
なにを話していても気持ちを込められないのです。

友人との会話では、
思いつくことだけ。

面接では、
一夜漬けの志望理由。

SNSでも、
”思いつき”の一言。

「言葉にできない日々」

気がついた時には、
そんな毎日を送るようになってしまいました。

なにを話していても、
言葉で説明できなくなってしまう。

いまこうして文字を打っているときにも、
自分の思いを言葉にできていない気がしてなりません。


「しっかりしてくれ、自分」


実は、そういう自分を変えたくて、
このブログを書き続けています。

だれかへの思いをつづったり、
良いと思ったものを紹介したり、
ときには、感じるがままに言葉にしています。

始めてから1ヶ月が経ちました。
まだ、思いを言葉にできていません。

でも、毎日続けることで、
ある思いが生まれていることに気が付きました。

「自分の思いを言葉にできたら、いまよりもっと自由になれるかもしれない」


わずかな希望ではありますが、
僕にとっては大きな一歩です。

これを励みに、
このブログはまだまだ続けたいと思います。

そして、いつの日か

思いを言葉にできない自分を変えたい。


そんな日は、
いつか来るかな。

2012年6月4日月曜日

No33. 「個」として生きる@早稲田大学大隈塾



今日は1年ぶりに、早稲田の名物授業「大隈塾」に参加しました。
※「大隈塾」は、田原総一郎氏が創立した、
次世代の指導者養成を目的として運営されている講義。

大学4年間たいへんお世話になった、
馬場祐平さんの講義があったためです。


馬場さんの経歴を、
簡単にご紹介させていただきますと、

中高をともに中退後、大検を取得。独自の勉強法を考え、早稲田大学に入学。
在学中の07年に、「道伴舎」の前身である「道塾」設立を経ての今。
著書:『受験はゲーム!』

というご経歴の持ち主です。



今日の講義テーマは、
『「個」として生きる』

このテーマの論点は3つありました。
1、「個」をめざした学生生活
2、「個」として生きる起業から今
3、「個」として生きていくには

講義のメインは、
馬場さんご自身の経験についてです。
※上の動画は、講義の様子です。



以下、短めですが、
僕が感じたことです。

素直に実感したことは、
「馬場さんは、自分のことを隠さず語れる人なんだな」ということでした。
なぜなら、馬場さんは「自分のありのままの姿」を話していたためです。


「(昨年に)ビジネスの拡大をやめて、教育という問題と向き合おうと会社の方向性を切り替えました。自分たちのことを、内部にも外部にも理解してもらいながら、社会の変革をしようと社運をかけてやりました。(中略)その結果、1年間で社員が全員やめ、塾生もほとんど入らなくなりました。(中略)今年の3月、そのような、会社としては最悪な状況になり、今を迎えています。成功の話ではないので、どんよりとさせてしまい、申し訳ないです。そうしたことがありながらも、起業をしてから5年間、僕が大切にし続けていることが1つあります。それは、自分なりに『個として生きること』です。」
※動画では、17分前後。

僕はこの言葉に感銘を受けました。
それは「大隈塾」という舞台は、成功者に与えられた舞台でありながらも、馬場さんは「自らの成功体験」を話すのではなく、「いまの自分の姿」をありのままに話していたからです。


こうした舞台に立つ方の多くは、いまの自分の負を隠すことが多いです。
もちろん、その理由はわかります。

僕の場合であれ「ありのままの自分」を話すことはできません。
誰かにそれを伝える事は、辛いからです。

でも、馬場さんは負の事も包み隠さず、
何百人もの学生の前で誠実に語っていました。

もちろん、成功したのにもかかわらず、です。

ここに、馬場さんの”個としての強さ”があるのだと思いました。

「個」として生きる。

この言葉を都合良く使うことはできるかもしれませんが、「個」として生きつづける事は、本当にむずかしいことなんだと、この講義を通じて思いました。

2012年6月3日日曜日

No32. 書籍紹介『伝わる・揺さぶる!文章を書く』



今日、紹介するのは、
山田ズーニーさんの『伝わる・揺さぶる!文章を書く』という本。

ズーニーさんは、大学卒業後、ベネッセで小論文の雑誌編集長を務めました。00年にフリーランスとして独立し、『ほぼ日刊イトイ新聞』で7年にわたって連載。その後、ラジオ放送や書籍執筆、ワークショップなどを経ての今。

この本は、具体的な事例をもとにしたアドバイスが中心となっており、
文章を書くための”軸”を学べます。

しかし、それ以上にこの本を良いと思うのは、


ズーニーさんの真摯な思いです。
「読者に文章の書き方を理解させてあげたい」


あいまいな説明をすることなく、
常に具体的でわかりやすい説明に、
心を砕いてくれています。

ブログや日記を綴っている方のみならず、
お願いやお詫びのメールの書き方を知りたい方にも、
おすすめの1冊だと思います。

もし書店で見かけたら、
ぜひご覧になってみてください。


P.S

↓以下
・もくじ(一部割愛)
・僕のレビュー


〜もくじ〜
 『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
プロローグ:考えないという傷
第1章:機能する文章を目指す
第2章:7つの要件の思考法
     第1節:意見
      第2節:望む結果
     第3節:論点
      第4節:関係性
     第5節:論拠
      第6節:根本思想
第3章:文章の書き方―実践編
     実践1:上司を説得する
     実践2:お願いの文章を書く
     実践3:議事録を書く
     実践4:志望理由を書く
     実践5:お詫びをする
     実践6:メールを書く
第4章:より効果を出す!テクニック―上級編
第5章:その先の結果へ
エピローグ:あなたと私が出会った意味




〜僕のレビュー〜
この本は、僕にとって貴重な出会いとなりました。

なぜなら、もし出会わなければ、
前回の『あんたが卒業しなきゃ、お父さんに申し訳が立たない』を書くことはなかったからです。

ズーニーさんは、プロローグとエピローグに、
自らの成功と失敗を書き連ねてくれています。

僕はこのプロローグとエピローグがあったからこそ、
前回のような文章を書こうと決めました。

ここでは、実際の中身について触れませんが、
この2つの部分では「ズーニーさんがどうして文章を書く事を生業としているのか」を印象づけるストーリーが数多く記されています。

時間がない方は、プロローグとエピローグだけでもおすすめです!

「あんたが卒業しなきゃ、お父さんに申し訳が立たない」







泣きながら母は、僕に言いました。


「あんたが卒業しなきゃ、
お父さんに申し訳が立たない」



そのことばを聞いた瞬間。



そのことばの意味を、
すべて理解しました。




いまから16年前、
母は父に言いました。


「だいじょうぶ。子どもたちは、わたしに任せて。」


父は、母のその言葉をきき、
亡くなりました。


僕がちょうど6歳のころでした。




それから母は、ひとりで

3人の子ども(長女、二男、三男)
を育てました。


でも、母にとってその3人の子育ては、
ほんとに苦しかったと思います。



長女は、高校には行かず、家に10年以上ひきこもりました。


二男も、高校には行かず、家にひきこもりました。


そして、最後の三男もまた、
母を苦しませた子となりました。


その子が小学生のとき、
いつも母に言っていました。


「うるせぇ、くそばばあ。早く死ね。」


母はそのことばを、
毎日あびせられました。



それに耐えられず、母は

「あなたは家の疫病神だよ」

とその子に言ってしまいました。



中学になっても、
その子の暴言はやみませんでした。


そしてその子は、
4校のうち3校の高校受験に失敗しました。


そのときにもまた、
母に暴言を吐きました。


「受からなかったのは、ぜんぶおまえのせいだ」



その子が、僕でした。



しかし幸運にも、
高校に入学するころには、
その子は自分を改めました。


勉強のやりすぎで救急車に運ばれた日や
2回の骨折で勉強に集中できない期間がありながらも


高校3年間をすべて、
勉強にそそぎました。


もちろん、
その子はわかっていました。


「その3年間は、母と兄弟全員の思いを背負っている」
ということを。



無事、その子は、
大学に入学することができました。


偶然にも
その大学は、亡き父の母校でした。



それから5年が経ち、


その子はまた、
軽はずみな気持ちで母に言ってしまいました。



「大学卒業なんかしても、意味ないじゃん」




僕は、馬鹿でした。


僕は、究極の愚か者でした。



なぜなら

母にとって僕の大学卒業は、
親としての最後の役目だからです。


そして、

僕の大学卒業は
父と母の最後の約束

でもあったからです。




もう「大学卒業しなくていい」なんて
死んでも言いません。



どんなことがあっても、
僕は大学卒業をします。




お母さん、迷惑かけて、

ほんとうにごめんなさい。

2012年6月1日金曜日

No.31 動画紹介『幸福と成功の意外な関係』

シェーン・エイカー「成功したから幸せなのではなく、幸せだから成功するのである」




そのとおりだと思います。



Hapiness(x)=Success